累(かさね)と累ヶ淵(かさねぶち)
「累ヶ淵」の伝説とその内容
「助」の悲劇
「累ヶ淵」の物語は百姓の与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦に起こった実際の話を元に描いたものです。
お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていました。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまいます。
あくる年、与右衛門とお杉の間に女児が誕生し、累(るい)と名づけますが、累の顔が助にそっくりであったことから、助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と、「るい」ではなく「かさね」と呼びました。
「累」の悲劇
両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎えますが、谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てます。
そして、正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害します。
怨念による「祟り」
谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、次々と亡くなってしまいます。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれましたが、寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめました。
このことを聞いた祐天上人は、菊に取り憑いた累の解脱を行うが、その後、今度は助の怨霊が菊に取り憑き、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。
この怨念による「祟り」は、今でも裏切りや殺人に対する因果応報の象徴として語られています。
三遊亭円朝による講談「真景累ヶ淵」
「真景累ヶ淵」は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した講談師・三遊亭円朝によって語られ、怪談話として広く知られるようになりました。円朝の講談は多くの人々に恐怖と興味を与え、「累ヶ淵」が日本の代表的な怪談の舞台として定着するきっかけになりました。
「真景累ヶ淵」は全て演じると毎日1時間かけて15日間かかるといわれ、大作ゆえに完全版が語られる事は難しく、第七話「お熊の懺悔」まで語られたのは圓朝以後は桂歌丸だけだと言われています。
累の墓
現在、累ヶ淵の裏手にある法蔵寺の境内には、累、助、きく、与右衛門の墓があり、常総市の指定文化財に認定されています。
また、法蔵寺には祐天上人が解脱に用いたという数珠・累曼陀羅・木像なども保存されており、未だに歌舞伎清元の上演者はここを訪れ、累一族を供養しているそうです。
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